新造形主義 Neo-Plastism 運動はドゥースブルフが1917年から発行した
機関紙DE STEIJL デ・ステイル (DEはオランダ語の定冠詞,STEIJLは英語の
Style) を中心としていた。当時はロシア革命などあったご時世でそうゆう
芸術運動はシュルレアリスムやらバウハウスのように組織の拘束力のある
一種の政治団体的なところがあったがこちらは機関紙が会員のコミュニケーションの
中心手段だったので拘束力がとても弱かった。
にも関わらずデ・ステイル誌は1917年からドゥースブルフの死後,1932年に
ドゥースブルフ夫人によって出された追悼号を最後に15年もの間続いた。
しかしこれだけつづいてもさほど残せるものはなかっただろう。デ・ステイルは
所詮中途半端な中間形態でしかありえない。造形芸術から意味を抜き取り
美的要素だけを残そうというドゥースブルフの主張はデ・ステイルがいわゆる
モンドリアンスタイルとなっていくにつれモンドリアンスタイルがデ・ステイル
を主張しはじめてしまいモンドリアンが企んだこととドゥースブルフの主張はが時間がたつにつれ
自己矛盾に陥ってしまうからだ。まえある雑誌で壁も便器もどこもモンドリアンの
コンポジション風に塗られたトイレを見たことがあるが
(これは最近になってつくられたものでデ・ステイル時代のものではない。)
ここまでひつこいとたんなるモンドリアンオタクになってしまってしまう。
(現にそうゆう皿とか腕時計とかモンドリアングッズは結構あるが...)
リートフェルトのシュレーダー邸でデ・ステイルの頂点を極めたあと,そこから
先が見えないのである。
中間形態,現代の”さきがけ”だったがそうでしかありえなかった。
しかしそのちゅうぶらりんとした状態こそに魅力を感じる。
ローヘやライトのような巨大建築物などなくてもよいではないか。
なんにもないへやに1枚か2枚コンポジションを置く,それだけで部屋の雰囲気
をがらりと変えうるのだから。